World Tour 1981

やっぱりこれは、
避けて通れない問題なのね
インドでは

 その11…シャローム、またはアッサラーム・アレイクム

ウッタム先生が、満月の祝をするからと招いてくれた。静かな満月の晩だった。親戚のじいさまが来て、ヴァガバッド・ギータの物語を朗読する。一節読んではナントカなんとかキー・ジャエと皆で声を合わせて、じいさまは、ほら貝みたいのを吹くのだが、うまく鳴らなくって、大音量のすかしっ屁みたいのしか出ない。その度にウッタム先生の子供達がクスクス笑って、ウッタム先生に睨まれる。花とお菓子とロウソクを捧げる。遠くで犬が鳴いている。セレモニーが終わって、小麦粉を煎って砂糖をまぶしたハッタイ粉(ムギこがし?)みたいなお菓子を貰って食べる。うまい。遠くの道を今度はトラックが一台通っていった。

宮沢賢治の作品に「ヴェジタリアン大祭」というのがある。ヴェジタリアンのお祭りの余興に食肉派とヴェジタリアンが大ディベート合戦を繰り広げる物語だ。私は肉も好きだがリシュケシュのヴェジタリアン暮らしで5キロ太ったよ。
インドには、ジャイナ教のサドゥー(修業僧)だったと思うが、マスクをして小さな虫を吸い込まぬ様気を付け、水は必ずガーゼで微生物を漉して飲み、虫を踏まぬようにはいつくばって小さな箒で目の前の地面を掃きながら行くという徹底したヴェジタリアンがいる。
まあ、私の場合、イルカやクジラとは是非お友達になりたいものだけど、特に鯨はおいしくて大好きさ。

御存じとは思うがインドでは宗教が盛んで、仏教、キリスト教、回教、拝火教、バグワン、露出狂などなど、その数には限りがない。特に一番盛んなヒンズー教だが、これがまたおもしろい。多神教(神さまがたくさんいる)なのだが、なんとその神さまには仏陀やキリストまで含まれているのだ!たぶん、多民族で構成される社会に於いて信者を獲得する為だったんだろうね。もう、何でも来やがれって感じだ。

インドポップスは別として、インドの伝統音楽は全て神に捧げる為のものである。ヒンズー教、大きくひっくるめてインド教とインドの音楽は切っても切れない関係にあるわけだ。よって、ここでもヨーガの苦行のようなものが登場する。タブラの場合はダディディダ・ダディディダという基本的なパターンをまず20年間やらされるそうである。指は形を造るだけでまことちゃんのグワシとなってつってしまう。シタールも一本弦を左手の指の腹ですべらせながら強く押さえてメロディを弾く為、奏者の人さし指の腹はいつもえぐれて変形している。爪の甘皮の部分に弦をあててすべらせて演奏する楽器や、指と爪の間で弦を押さえないと良い音が鳴らない楽器などもある。インドの伝統楽器がすべからく人間工学を無視した構造になっていて、およそ音を出すこと自体が苦行となるように設計されているのもうなずけるというものだ。

タブラを教わるうえで、なるべく関わらない様にしてきた宗教問題なのだが、ここへ来てウッタム先生、ついに神に対する信仰を要求してきた。

私は基本的に宗教に対して不信感を感じる。私自身は、どちらかといえば信仰に対する興味はあるほうだと思うのだが、はっきり言って宗教が嫌いなんである。それは害悪であるとさえ思っている。正確に言うと、「宗教団体が嫌い」なんだが。政治家と宗教団体からは、むしろ重い税金をとるべきだと思うよ。

イエズス会カトリックのミッション系中高校生だった時分から既に科学者であった私は、その頃宗教なるものに純粋な興味と疑問を抱き、いろいろ調べることにしたのであった。たとえば母校である高校の属するカトリック教会、学校での聖書研究会、当時の台湾人のガールフレンドが通っていた中華街のプロテスタント教会、友人の信仰する創価学会、実家の真言宗、真言密教ほか京都の仏教関係各宗派の寺、代々木上原にあったモスリム教会、玄関ではものみの塔という具合に目につく教会、集会に片っ端から参加し、果てはTM瞑想までやってみたのだ。そうして、自分の疑問を問いかけたのである。すなわち、あなたがたの信ずる神は何なのか、それは他の団体の奉る神とどう異なるのか、なぜ他の神々を否定するのかという疑問だったのだが、この問いに対して明確かつ満足すべき答えを返してくれた宗派団体はついにひとつもなかったのである。

私は神の存在を否定するものではけっしてない。だが、現存のこれらの宗教の神が実在したとしても、今伝えられている各教義はどれも基本的には同じ様な事を云っている事実、そして、そのどれもが他の神を否定しているのだとしたら、それらは実は同じものであると考えた方が合理的なのではないだろうか。また、各教義が神の言葉そのものであるともとても思えない。例えそれが神より伝えられたものだとしても、今に伝わるどの教義も、昔々の人々に対してその時代のその文化のその言葉で表現されたものに過ぎないであろうと考える。常識や慣習や文化などの条件が変化してる現在において、その言葉をそのまま受け取っても意味はない(回教のコーランだけはその点少し特殊で、その時代と文化にかかわらずテクストをイスラム全体にかかわるものとして読み取ることが必要なのだそうだ)。また、長い間の伝言ゲームが最初の意図を正確に伝えているとも思えないのだ。よって聖書の内容を鵜呑みにするファンダメンタリズムの一派など、愚の骨頂の極みである。しかし、アメリカでは結構名の通った科学者がこの信徒だったりするんだよな。わけがわからん。聖書、経典の一句一句は単に比喩メタファーとして捉えるべきであろうに。

宗教を信ずる各個人個人は、その個人レベルではどなたも素晴しい人であったりするわけだが、十字軍の昔から現代のサラエボ、パレスチナに至るまで、各宗教の持つ排他性と群集心理は、戦争と報復を、そして終わりの無い憎しみの悪循環を引き起こし、それらを奉ずる人々は互いに、それぞれの神と大義の名の下に多くの人の命を奪ってきた。この事実を神の名をして正当化することは誰にもできない!

唯一、ダライ・ラマ(中国にチベットを追われた)が「私はチベット仏教の一宗派であるラマ教の一介の坊主ではあるが、自分の信徒のみを増やそうとは思わない。なぜなら宗教の願うところは、どれも全て同じだからである。」と言い切っていたのに救われる思いがする。

信仰は個人レベルの行為だ。他人に求めるものではない。ましてやけっして強制するべきものではない。

考えてもごらんよ。
シャローム!(ユダヤの挨拶)。ワ・レイクム・サラーム(アラブの挨拶)。な、そっくりだろ?君らも僕らも、ルーツはきっと一緒なんだぜ!

つづく


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