World Tour 1981

春は
別れの季節

 その12…別れ

ポルとガルの二人は再びヒッチハイクでポルトガルに帰っていった。国への土産はなんとリシュケシュの市場で買った生姜だ。そんなに生姜って高価で貴重な物だったのか?ポルトガルでは。まるでコロンブスみたいな彼等なのであった。
餞別に私は針金とアルミの管で、12の直角三角形で構成された、ぐるぐると内側に捻れて回転するオブジェを造ってあげた。彼等はお礼にリシュケシュの林で採ってきた小枝と赤い木の実を画用紙に貼り付けて、壁飾りをこしらえてくれた。野菜のシチューと林檎ジャムとチャパティーを作って隣りのドミニクも呼んで、ささやかなお別れパーティーを開いた。気のいい奴らだった。

インドに来てそろそろ半年になろうとしていた。4月いっぱいで例の半年間のインド滞在許可も切れる。今回こそは一度国外に出ねばなるまい。コウロー夫妻も暖かくなって来た気候に合わせて、ガンゴトリのグルの元に戻るそうだ。ジョンとドミニクも暫く何処ぞに旅をするらしい。ウッタム先生はもう半年間だけでもレッスンを続けるようにと云うが、同時に彼の神への帰依も要求してきているのが気にかかる。

そろそろ潮時かもしれない。半年間叩き続けたタブラをケースにしまって、私は初めて渡し場から舟で対岸のガートに渡ってみた。毎日眺めていた対岸には巡礼者用の大きなレストランや仏教風のパゴダみたいな寺院があり、頭を地面に突っ込んで針の上に座り腕を天に伸ばしている修業者と観光客と巡礼者がたくさんいた。ガンガに沿って上流に向かって歩いた。ライ病患者の村を抜け、さらにいやというほど歩いた。両側に山がそそり立つようになり、数百メートルあった河幅は数十メートルに狭くなってきた。私は脱いだ服を腰紐で頭にくくりつけ、ガンガを泳いで渡った。ヒマラヤの雪解け水を得て水量を増したガンガは茶色く冷たく勢い良く流れ、私を下流に押流した。ようやく向こう岸に着いた私は、母なるガンガにに足跡を残すべく、河原にウンコをした。それはインドに行ったら絶対にしようと決めていた行為であったのだ。

そうして、インドに対する思いを込めた聖なるセレモニーを終えた私は、河沿いに下り、つり橋を渡ってもう一度ライ病患者の列を通りすぎ、ガートに戻った。そこになぜかドミニクが突っ立っていた。今日リシュケシュを離れることに決めた、と伝えて別れのキスをして舟でスイス・コテジに戻った。ドミニクも少し泣いた。

つづく


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